「上方落語と江戸落語の違いなんてほとんどありません」
こういうふうに評する方が落語界隈のライターさんの中にも実際にいらっしゃいます。
「たまに見台や小拍子を使い、お囃子の鳴るネタがある、というだけです」

大体がこんな論調です。
別に現状は間違いではないんですが、モヤモヤします。
ただ、そのモヤモヤを説明するのには物凄くいろいろと説明をしなくてはいけないので、多くの方が、
「ん-、そういう一面もあるね」
という生暖かい反応をしていらっしゃるわけで。
そういうネットには載っていない『なぜそうなったのか』という面倒な説明や、語られなくなった出来事などを昔の書籍などからほじくり返して、後世に伝えていくという事に少しでもお役に立てればという思いから当『やしおりちゃんねる』はスタートしております。
でもねー、なかなか裏撮りに難航しておりまして。

『上方落語は、小拍子、見台、膝隠しを使ってお囃子が入り、江戸落語は基本的にはそういう物は使わない(出囃子は除く)』って簡単に言うけど、ほな「何がどうなって上方落語はそれを使うようになって(明治の頃はさらに火鉢と鉄瓶などが置き道具として用いられていたし、ほとんどのネタにお囃子が入っていたらしい)、江戸落語はなぜ使われないのか」を記した資料をまとめるのってなかなか厄介なんですよね。
まーとりあえず冒頭の「上方落語はたまに見台とか使うけど、基本的には東京の落語と一緒だ」と言われてしまう理由にはたどり着くことができました。

大正の頃ラジオ放送が始まり、ラジオを通して落語ブームがやってきた際に、
『ラジオでは、見台たたきは咄のじゃまになるばかりでわずらわしく、見台の上で演じられる物まねは伝わらない。昭和初年のことで、落語を知らない地方の聴衆者には雑音にうけとられ、しきりに苦情の投書が放送局へ舞いこんだのである。下座音楽(お囃子さんたち)はまた、予算外の経費になる。これらの付属物、修飾物はなくてもすむものだ。東京のように咄一本でやれ、というのが当時の官僚的放送局の見解であった。』(1972年『落語の系譜』宇井夢愁・角川書店)

さらに戦後になって、
『あたかも上方落語の特色とされてきた置道具(見台、膝隠しなど)、持道具(小拍子、張り扇など)、楽器類いっさいが焼けてない。実際問題として素ばなしでいくほかなかったが、道具類を使わず、はやし鳴物を抜けば素ばなしになるかといえば、そうはいかない。(中略)そこで咄の構成をバラバラにほぐす作業がはじまった。(中略)その一方で「復興」を志す興行資本は、焼失した置き道具や楽器類を新調する。(中略)具体的にいえば、同じ上方落語でも伝統の見台や小拍子を使う落語家と、あっても使わない落語家が並存したのである。』(同)
どや(笑)。
古典や起源を探ることが新しい物を作るうえで最も重要な事であると考えるのです。
それは「あの時代のあのタイミングで別の選択肢を選んでいたなら別の世界に進んでいただろう」なんていうSFにも似たイメージですね。落語という物には歌舞伎や義太夫のように決まった伝統的な台本は基本的には存在しません。もちろん大師匠方のお伝えになったネタという物は存在します。が、古典落語と言われるほとんどが大昔の話の種のような物を膨らませて整えられた作品だったりします。
そういったものに今の感覚を加え、発掘し、創造し、作り直して、磨いて、伝えていくことができたら、どれほど素敵な事かと思う今日この頃。
嗚呼、素晴らしきかな上方落語作家。
やしおり拝
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